I 私の思想的根拠

 私は一貫して社会福祉学を追及してきたつもりであるが、社会科学としての社会福祉学もそのパラダイムは,突き詰めれば研究者の思想に左右されて形成される面が大きいというよりも殆ど決定的であることを痛感するようになってきた.たしかR.ティトマスもこのことを強調した.

 本書(まだ纏まっていないが)は1947年7月旧満州から日本に引き揚げ後,大学に入って以来の自分の思想的足取りを表すもので主に当初の未発表のものを集めることを試みたものである.

 末尾の3編は最近各所で発表したがまだ一書に纏めていないものをついでに載せた.
 

【目次】

 

1,「功利主義について ~利己心と利他心をめぐり~」

(同志社大学文学部社会学科卒業論文で,1953(昭和28)年12月24日提出したものの原稿である.当時コピーがまだ発達していなかったので手書きの原稿であるが、最終稿や引用なども不明確であるが,なんとか復元したものである.提出した.本物を借り出すべく,同志社の社会学科の事務室に頼んでいろいろ探してもらったが見付からなかった)

2,「宗教体験のたしかさ ~波多野宗教哲学に学ぶ~」

(時日は定かではないが、1957(昭和32)年同志社大学大学院で波多野宗教哲学を学んだ時のレポートであろう.その把握の明確さに我ながらびっくりした.原稿には引用が示されているが、時間の関係で明示する余裕がないのでそのまにした)

3,「J・S・ミルの<功利主義>について」

(1960年5月4日 四国学院大学のアセンブリアワーで講演した草稿)

4,「私の学問的経歴」

(四国学院における昇格審査の資料として用意したもの.1965,12,27)

 

5,「郷愁」

(四国学院文芸誌『燈火』第5号(1966<昭和41>年12月10日号)に稿

したもの.同年夏、国際会議参加を兼ねて二ケ月程アメリカを初めて訪れた時のもの)

 

6,「聖地旅行後記 ~天のエルサレムと地のエルサレム~」

(1978年8月国際会議出席を兼ねて聖地旅行をした後の感想を1979年のクリスマスに書いたもの.『和解』所載)

 

 

 

 

7,「訪中・訪郷記 ~思想と経済及福祉~」

(1981年引揚後初めて旧満州を訪問した時の手記.『和解』に掲載されたもの)

 

8, 「アミタイ・エツィオーニのコミュニタリアニズム運動とその綱領」

(秋山智久/高田眞治編著『社会福祉の思想と人間観』1999,6,10 ミネルヴァ書房,

所載)

 

9,「R.H.トーニーとキリスト教社会主義」

(『キリスト教社会福祉学研究』32号(2000,1,31),所載)

 

10,「賀川豊彦の思想と社会福祉の将来」

(日本社会福祉学会大会発表レジメ(2000,11,3) (当日配布分)
 
 
 

 
 
1.「功利主義について ~利己心と利他心をめぐり~」 

同志社大学卒業論文(原稿)昭和二八年一二月二四日提出

                         

目次

 

 

序説

  第一章 ベンサム主義とその展開

   第一節 ベンサムの功利主義

   第二節 ベンサム主義者とその時代

   第三節 J・S・ミルと功利主義

  第二章 功利主義の本質

   第一節 功利主義と英国思想の傳統

   第二節 功利主義の根本原理

   第三節 功利主義の批判

  第三章 利己心と利他心

   第一節 ホッブス、ロツク、スミス、

   第二節 功利主義に於ける利己と利他

   第三節 利己心と利他心とは何か

 結 語

 

 

 

 

参考文献

1 ベンサム『道徳と立法の諸原理序説』  一七八九年

  田利佐重訳『功利論』 春秋社 世界大思想全集

  堀秀彦訳 『道徳論』(前半部) 銀座出版社

2 J・S・ミル、UtilitarianismOn liberty  Everyman´s Library判

3 J・S・ミル著、塩尻公明訳『ベンサムとコールリツヂ』昭和一四年 有斐閣

4 W・L・デイヴィドソン著、堀豊彦、半田輝雄訳『イギリス政治思想』

  (ベンサムからミルに至る功利主義者)、一九一五年 岩波現代叢書

5 Elie Halevy,trans.Mary Morris, The Growth of Philosophic Radicalism,   1928 Faber & Faber Limited, London,E・アレヴイ、『哲学的急進主義の  成長』(原書一九〇四年)、英訳マリー、モリス訳、一九二八年 

6 河合栄次郎著『社会思想史研究』 日本評論社 昭和一五年

7 大道安次郎稿「功利主義」「自由主義」「近代自然法の社会思想」創文社版   『社会思想史辞典』所載

8 塩尻公明著『イギリスの功利主義』 昭和二五年 アテネ文庫

9 高島善哉偏『アダム・スミス』・近代精神叢書 昭和二五年 山根書房

10 太田可夫著『イギリス社会哲学の成立』昭和二五年 弘文堂

 

 

11 杉村宏蔵『経済倫理の構造』 昭和一三年  岩波書店

12   河合栄次郎著『トマス・ヒル・グリーンの思想体系』 昭和五年 日本評論社

 

 

 

 

 

 

 

 

序 説

 

 協同の精神がなければ絶対に今の世の中はよくならない!! では人々は無条件に協同するであろうか.協同はしばしば利己心の抑制を伴う.それは利他心に通じる.利他心のの存在は利己心に比べてうすいように思われる.人間の利己心は抜き難い.それは基本的な生存の欲求そのものに連なっている.では利他心と利己心の関係はどうであるか.利他心は利己心よりみちびき出されるか.或いは利他心は利己心と併び存するものか.確実なる存在とみられる利己心より協同の精神に至る明確な論理は得られないか.神とか人格とかの形而上学的なものを持出さずに万人を納得せしめる原理はないか.何故ならばそれら形而上学的原理は万人に強制するわけにはゆかぬようであるから.

 

 人間性と社会体制、個人と社会、利己と利他、この問題は我々社会福祉を研究し又現実にそれを実現せしめようと熱く冀ふ者にとってどこまでもつきまとい解決を迫る根本的な問題ではないであろうか.否それはすでに過去幾多の社会思想家の問題であったのであり、人間存在そのものの問題なのである.

 

 功利主義は主として一九世紀前半の英国に於いて社会思想の主流をなし資本主義勃興時代のイデオロギーとして政治、経済、法律、道徳哲学等各方面に力強い影響を及ぼした思想である.「最大多数の最大幸福」というそのスローガンは、単なるイデオロギーの観点でなく一つの理念としてみるときにも、卑近ではあるが実際的な何か首肯せしめような響きをもっているし、上のような問題の解決についての試みの一つであるように思われる.

 

 私は本論文に於いて、先ず歴史的なUtilitarianismをしらべ、次に理念としてのそれを考察し、利己と利他の問題に及んでみようと思う.
 

 

 第一章 ベンサム主義とその展開

 

 第一節、ベンサムの功利主義

 

 功利主義特に狭義の功利主義即ちベンサム主義Benthamismは、普通、ベンサム(JerremyBentham,1748-1832)、及び、ジエイムス・ミル(James Mill,1773-1836)及びその子ジョン・ステュアート・ミル(John Stuart Mill,1806-1873)によつて代表される.

 

 ベンサムは功利主義の系譜の始祖である、しかし功利主義はすべてが彼の独創であるというよりも、その時代に行われたいろいろな思想をまとめてそれをはっきりした一つの体系につくり上げ、凡ゆる問題に対して終始一貫その原理を適用して止まなかったのは彼である.功利主義を一名ベンサム主義と言い功利主義者をベンサム主義者と呼ぶ所以である.彼は一七四八年ロンドンの富恪な弁護士の家に生れ、若くしてオックスフォード大学に学び法律を研究した.父の希望により一時弁護士の職についたが間もなくやめ、その後一生を専ら学問の研究に献げた.

 

彼は功利主義の原理により法学を組織し、英国法学の鼻祖となったばかりでなく実際に於いても立法、行政並びに司法上の改革家であった、彼は独身を通し幸福で勤勉な充実した生涯を送り、一八三二年に八四才で死んだ.法学を主とした彼の著作は文通をも含めてJ.Bowrinq の刊行した一一冊の全集をうずめている.彼は快活楽天的であり同情の精神に富み、下級動物をも偏愛したといわれる.

 

 今彼の代表的著作である.『道徳並びに立法の諸原理への序論』(Introduction to the Principles of Morals and Legislation)、によって彼の功利主義の基調を見よう.

 

 この書は一七八九年(フランス革命の年)、彼が四一才の時出版された、まず第一章、<功利の原理>の劈頭にエルヴェシウスHelvetius の言葉そのままに「自然は人類を二人の帝王即ち苦痛を快楽の支配下においてきた.吾々が何をなすべきかを指示し何をなすであろうかを決定するのは独り彼等のみである.つまり一方に於いて正邪の標準が、他方に於いては原因と結果の連鎖がこの二人の帝王の王座につながれているのである.この二人の帝王は、吾々のなすところの一切の事柄に於いて、吾々の言おうとする一切の事柄に於いて、更にまた吾々の考える一切の事柄に於いて、吾々を支配している.……功利性の原理はかかる隷属を確認し、これを理性と法律の手によって幸福の殿堂をつくり上げることをその目的とするこの体系の基礎として認めることである.……この功利性の原理(一八二二年に追加された注に於いて最大幸福の原理を追加している)こそ本当の基礎である.……そして功利性の原理とは、行為がこの功利に利害をもつものの幸福を増大するか乃至減少せしめるか、換言すればその幸福を促進せしめるか乃至はこれに対立するように見えるかに基いて、すべての行為を確認し又は否認するところの原理である.私はここですべての行為と言う.それは私的な個々人の一切の行為のみならず、政府のすべての政策を指すのである」(1)Halevy )

 

「功利性とは利害に関係を有する当事者に対し、恩恵、利益、快楽、善、乃至幸福を生み出すべき、或いは災厄、苦痛、災害乃至は不幸を防止すへき傾向をもつすべての事柄に於ける性質を意味する.例えばその当事者が社会一般である場合にはその社会を、またそれが特定の個人である場合にはその個人の幸福を意味する」(堀訳 p.25-27)

 

 彼は道徳の問題と立法の問題を同一の原理と方法によって基礎づけている.彼の眼目は個人の善や福祉のみならず社会の善と福祉であった.彼に於いて社会とは何であろうか.「社会(Community) とはいわば社会の成員を構成するものと考えられるところの個々人から成る一つの仮想的(fictitious)なものに外ならない.その場合社会の利益とは社会を構成している成員の総額これである」.「それ故に個人の利益の何たるかを理解せずして社会の利益を語ることは徒労である」(堀訳 p.29).「個人主義的原子論的な彼の社会観がみられるであろう.

 

 次に彼が功利主義の反対原理として何を予想し考えていたかを見ることは当時の思想界の状況をも知り得て興味がある.彼は第二章<功利性に対立する諸原理>として「禁欲主義 (Asceticism) と「同情と反感」(Sympathy and Antipathy)の原理、つまり個人の嗜好を挙げ、前者即ち「換言すれば苦痛を愛する主義はそれを奉仕する人々に伝わって如何に熱心に体員の私的行為の基準とされたとしても、一旦公の政治上の行為に適用された場合には大して遵奉されたものとはお思えない」とし、後者については「従来正不正の標準についてつくり上げられ来たる種々なる体系はすべてこの原理にまで還元されうるとして、道徳感(moral sense) 、常識(common sense)、悟性(understanding) 、永遠不変の正義の法則(rule of right) 、条理(fitness of things) 、自然の法則(Law of Nature) 、自然の公正(natural equity)等直観的類型に属する諸原理をあげ、一々を詮索して、すべて気まぐれなる感情説であるとして拒け、これらの原理が実践の基準として適用される場合にはしばしば実害をもたらすことを例にあげて断じている.しかして神学的原理(つまり正不正の標準のために神の意志ををもち出すところの原理)も「以上の三つの原理のうちあれかこれかが異なった形であらわれるものにすぎない」(1、としている.結局のところ「一貫して追求することの出来る原理は功利性の原理のみであり、それこそ行為のための「唯一の正しい基礎である」.

 

 次の各章に於いて彼は快楽と苦痛の制裁乃至源泉、その価値及測定法、その種類、感受性に影響するもろもろの事情について詳説する.

 

 彼は強度(Intensity)、持続度(Duration)、確実度(Certainty or Uncertainty)遠近度(Propinquity or Distance)、豊ぎょう性(Fecundity)、純粋性(Purity)とさらにその範囲(Extent)、つまりそれが及ぼす人間の数、という七つの基準を以て、快苦の価値が量的に計算出来るものなることを説く.彼の説は説は、人間は「快楽及び苦痛の計算機」である.我々はそこに彼が道徳の数学を樹立せんとするを見る.(1、堀訳p71. 或いは植物学的な快苦の分類をみる.つまり彼は先づ道徳と立法の技術を人間行為の客観的科学の基礎の上に置かんとしたのである.(1、*

 

 更にベンサムは人間の行動一般、意図、意識、動機、性癖についてのべ同書の後半は犯罪と刑罰に関する論述である、例えば動機については、仁愛を最高の地位におき、全体系を最大多数の最大幸福という基準によって吟味し、しかも個人は一として数えられねばならぬということを忘れない.

 

 一五年の推敲をへたといわれる本書は、具体的事例と適切な側証によつて生気に満ち、限られた紙数でそれを説明しつくすことは不可能であるが、功利の原理について簡単に骨子を述べれば次のとほりである.

 

 彼は本書の序文に「本書はあたかも複合数学と自然哲学の両者からなる書物に対して純粋数学の書物が果たすごとき役割を将来の著書に対して果たし得るだろう」(1、「(アリストテレスの)悟性の論理学と同じように意志の論理学も存する」「意志の論理学が立法の技術に対してもつ関係は、解剖学が医学に対してもつそれである」(1、とも言っている.功利主義とはニュートンの物理学の原理を政治と道徳に適用せんとした試み外ならない. (1) 堀訳P.11(2) 堀訳p.19(1) 堀訳p.19(2) アレヴイ

 

 

 

 

 第二節 ベンサム主義者とその時代

 

 ベンサムとベンサム主義者たちの時代がいかなる時代であり又彼らがその時代に対して果たした役割をみることは必要且有益であろう.

 

 先ずベンサムの出でたる一八世紀の英国は沈滞の時代であった.前世紀以来の民権闘争も政教徒革命、名誉革命、王政復古等の迂回をへて民権を一応確立し、「寛容法」を以て宗教上の争もまた落着したので世情一般しばしの平安を得んとするの情切なるものがあった.又他の諸国はなお君主専制の下に苦しむに比べ、憲法の下に有する彼等の自由は世界に比なき特権なりとして現状に満足せしめ、又その国家的繁栄は重商主義の実施によりオランダ、フランスを破り、世界の工場たるの地位を獲得し又着々世界の植民地を併合して国運は日々に進みつつあったのである.然し一度び社会制度に目を転ずる時、そこに種々の改革を要する問題を孕みつつあったのである.先ず選挙制度をみるにアイルランド併合前(一八〇一年)前に於ける下院議員の数五四八名の中、最大部分は南部西部より選ばれ、バーミンガム、マンチエスターの如き新たに勃興せる都市に一名の代表者なく議員の半数は公選の方法を採りたるも、他の半数は全く買収によるか、又は勢力家の指名に係るものであった.更に都市の行政を見るに之等地方団体の権力は少数の商人の手中にあった.彼等は賄賂を収め町費を私し腐敗の極を尽くしていた.従って警察制度の如きも全く不備にして風紀紊乱し盗賊横行し殆ど無政府の状況にあった.一八〇一年のロンドンでは人口六四万一千であったが、その中二万は浮浪人で五千の飲食店があり五万の淫売婦があったと言うことである.而して僧侶及び貴族は階級的特権を有して犯罪を為すも罰則を免るるを得るのみならず、公共の官職は朋党の関係を以て与へられた.又当時の法律は不合理極まるものであった.例へば地主は狩りの獣を保護するがために発條銃又は人穽を使用することを許された.又重罪犯人の疑を受けたものは全然弁護を許されない.之がために無実の汚名を帯びて死刑せられたものが尠くない.更に訴訟の当事者は互に証拠を提出することを許されない.又無用迂遠なる擬制は法律を一部法律家のものたらしめ一般人民にふれしめざるの嫌があるのみならず実際的なる日常生活に背馳し到底敏活なる取引に適しなかった.之を要するに一八世紀の英国は自由の名を以て誇られつつ最も自由の名に相応しないもので換言すれば最大多数の最大幸福に副はざること最も甚だしかった.

 

 以上は産業革命前夜の英国の姿であるが一八世紀後半に入って英国は二つの重大な事件をもつ.一つは産業革命であり一つはフランス革命である.産業革命は根本的変革をイギリスに齎らしたが、その一つは近代的意味に於けるブルジョワージーとプロレタリアを産み出したことと、その二は従来の産業構造の比重を根本的に変えたこと、その三は農村に対して都市が急激に発展したことと、その四は近代的なブルジョワジー(わけても産業的)の努力が伸張し自己の権利を実力的に主張しはじめたこと、こうした一連の社会的事実を斎らしたのである.

 

 又一方フランス革命は究極的にはナポレオンの大陸封鎖政策となってあらわれ、イギリスは大陸から穀物が入らなくなり、ために穀価の騰貴、地代の高昇かくて地主階級の地位が強化された.又旧勢力の地位はかへって強化されたのである然して勃興せるブルジョアジーは封建貴族と地主によって独占されていた政治組織をかちとるために何よりも議会で勢力を得ること、即ち選挙法改正法案を通過させること、第二に穀物条例を撤廃させなければならなかった.ブルジョアジーの要求する政治的経済的自由に対して最も良い思想的武器を提供したものがベンサムの功利主義であった.

 

 事実又ベンサム及びベンサム主義者(哲学的急進派)たちは自由の実現、時代の改良に大いに力を尽したのであって、彼等のみの力に帰することは出来ないが、選挙法は一八三二年に改正され、穀物条例も一八四六年に撤廃された.一八二四年と二五年に労働者団結禁止法が撤廃され、二九年にはカトリック教徒の信仰自由の確認(Catholic Emancipation Act) が通過している.

 

 ベンサムが功利主義の原則を完成したのに一八世紀の末であるが、それが具体的に社会的勢力となったのは一九世紀に入り一八〇八年ジエイム・ミルがベンサムを識り彼の門下的存在となってからである.彼はベンサムの弟子のうちで最も有能且剛直であったとされ、彼自身の学派の巨匠であった連想主義心理学を以てベンサムの教説に鋭い洞察を加えた.て一八二〇年から四〇年にかけて、ベンサムを中心としてその功利主義を指導原理として政党にまでは至らぬが、有力な政治思想家のグループが出来て哲学的基礎に立った自由主義的進歩的方策の忠実な擁護者として活躍し、通常哲学的急進派(Philosophical Radicals)として知られている.主なる人々としてベンサムを中心に、ミル父子の外にジョージ・グロート(George Grote)(一七八四~一八七一)、ジョン・オースチン(John Austin) (一七九〇~一八五九)、アングザンダー・ベイン(Alexander Bain)(一八一八~一九〇三)、ディヴイド・リカード、などがあげられる.ジョージ・グロートはギリシヤ史家であり政治思想家であり又実際政治家でもあった.彼は議会に於ける秘密投票制を擁護し選挙制度の改正に尽した.ジョン・オースチンは傑出せる功利主義法学者としてベンサム、ジェイムス・ミルの仕事を完成したと言われ、その著『法律学限界論』は劃期的なものとされている.ベインは又心理学者、倫理学者、教育学者として当学派に卓越せる重要な位置を占め、功利主義と連想主義哲学を精密なものにした.経済学者リカードも又シエィムス・ミル、ベンサムを通じその経済学に於て功利主義の思想を支持したのである.彼を通じて古典派経済学に与えた影響は大きい.一八二三年に彼等の機関紙ウエストミンスター・レヴューが創刊された.彼等は皆思想家であると同時に実際家であった.

 

**功利主義者の社会思想が特に一九世紀前半の英国に於て有力なったのには、その時代に負うところ多大であった.

 

 前世紀の後半に於いて英国は二つの重大事件に遭遇する、一つはフランス革命であり、他は産業革命である.大革命のもたらした恐怖政治とをナポレオンによる帝国主義的政治は、英国に於て反動的にカクシン革新的教説を好ましからざるものとし、大陸封鎖は地主?階級を中心とする旧勢力を強化したが、一方産業革命はイギリス社会に根本的変革をもたらし、産業構造を変え都市を勃興せしめ、産業ブルジョアジーの発展と、新しき階級の発生を来らしめた.

 

 彼等はウイリアム・ペーンの急進民主主義にも、又ゴドウインのアナキズムにも同情をもたなかったが、さりとてエドモント・パークのトーリイズムと、土地貴族等旧勢力の支配に対しては強い反対を表明した.とりわけ前世紀以来の旧慣、普通人にわからぬ判例法、コンモンロー、腐敗せる選挙区制度、その他の積弊、或いは姑息な産業立法とその将来に対しては、堪え難い厭忍をあらわした.自由放任経済政策、自由資易は正しくこの時代の?経済的必要をあらわし、その個人主義的政治政策とその自由の享受は彼等の経済理論を広く反映するものであった.彼らは一八世紀的**概念の**に反対し、人間進歩に信頼をおくことによって新しき力の解放を要望した.ベンサムはまさに彼等に理論的武器を提供したのである.