Ⅳ 二一世紀の課題と展望

a、「福祉世界」主義

 以上世界の現状を見ると、いろいろな問題は継起しているが、大筋から見ると福祉国家主義は健在であり、その方向しかないというのが私の見方である。しかしもはや1国だけのまた産業先進国にのみ通用するソーシャル・ポリシーは限界が出てきたのであり、大方の問題がグローバルに関連してきたのである。

 二〇世紀の後半において民主主義先進諸国は福祉国家たるべく努力してきた。我が国も例外ではない。しかし世界中を見渡すと一応のレベルでも福祉国家を達成したと思える国々はまだ少いのである。まだそれどころでない第三世界の多くの国々がある。「福祉国家」がすべての国民に対して一応の最低生活の権利を保障するものであるに対して、「福祉世界」とはこの地球に生をうけたすべての人が、世界市民として最低生活(ミニマム)の権利を保障されるような世界になることである。世界市民資格(world citizenship) とはそのようなものを現すものであり、それを目指すものを「福祉世界主義」としてよいであろう。二一世紀にはそれを目指さなければならない。

 私は他の所(注22)でも述べたが、世界的規模で考えて切迫した問題は相互に密接に関連する三つの問題(3W)に要約できると思う。その三つの問題とは、一、局地戦争と狂気の殺戮、圧政と難民の流出(War) 、二、絶対的饑餓的貧困と人口爆発(Want)、三、地球規模の環境破壊(Waste) である。それらはもはや詳しく説明する必要はないであろうが、一、について言えば、二〇世紀は狂気の戦争の世紀であったと言ってよく、少なくとも二一世紀の前半に、戦争と圧政をなくして世界平和の達成を目指すことは理想主義的過ぎるであろうか。二、について言えば、相対的貧困はともかく、少なくとも赦しがたい絶対的貧困をなくすのは「福祉国家」の第一の目標であったのであるが、これを「福祉世界」というグローバルな視野に適用するのは当然といえないであろうか。このことは人口爆発の危機と密接に関連している。三、の地球規模の環境保全も緊急な課題である。我々は他の生物とも共生して「安心して住める地球」を確保しなければならないと思う。

 これらの問題はお互いに密接に関連しているので別々にでなく同時にアタックすべきである。福祉サイドからは二、の絶対的貧困が当面の敵であるが、それは他の問題にも全て関連し、その解決は他の問題の解決に通ずる。

 もちろん今後とも各国は自国の「福祉国家」の充実に向かって努力しなければならないが、現在福祉国家の危機と言われている、福祉のカットや、新しい失業問題は一九世紀、二〇世紀のそれとは違って、国際化とグローバリゼーションに起因するものであり、もはや発想を新しくし「福祉世界」を考えずに解決策はないといえる。世界ソーシャル・ポリシーが課題となってきたのである。

b、脱・近代主義

 前者「福祉世界主義」と関連があるが、地球全体の容量と環境問題を考えると、GNP本位や経済成長至上主義がもはや通じないのではないかと思われる。維持可能な開発 (sustainable development) ということが至上命令になった。人格尊重という意味でのキリスト教的なヒューマニズムに仏教的な自然主義的生物共生主義を加味した新しい発想が必要になってきた、特に環境問題に関連して脱(または超)近代主義という考えが必須となるのではないか。先進国では従来「衣食住」と言われていた「人間の基本的必要」(human basic needs) が「医職住」に格上げされているが、「福祉世界主義」の観点から見れば、端的に「三度の食事を自分の文化の中で安心して食べられる」ことに縮小してもよいのではないかしきりに思う。先進国での企業活動もこれからは環境保全が第一義的な企業倫理となる。これを脱(または超)近代主義と名付けてよいかどうか分からないが、先進国は自己の生活水準を一部低下させても第三世界と折り合うことが要求されるであろう。未開に戻るというのではなくてなんらかの意味で、もっと大きくもっと物質的に豊かに、という近代主義を超えることが必要になってきたのである。

b、脱・近代主義

 前者「福祉世界主義」と関連があるが、地球全体の容量と環境問題を考えると、GNP本位や経済成長至上主義がもはや通じないのではないかと思われる。維持可能な開発 (sustainable development) ということが至上命令になった。人格尊重という意味でのキリスト教的なヒューマニズムに仏教的な自然主義的生物共生主義を加味した新しい発想が必要になってきた、特に環境問題に関連して脱(または超)近代主義という考えが必須となるのではないか。先進国では従来「衣食住」と言われていた「人間の基本的必要」(human basic needs) が「医職住」に格上げされているが、「福祉世界主義」の観点から見れば、端的に「三度の食事を自分の文化の中で安心して食べられる」ことに縮小してもよいのではないかしきりに思う。先進国での企業活動もこれからは環境保全が第一義的な企業倫理となる。これを脱(または超)近代主義と名付けてよいかどうか分からないが、先進国は自己の生活水準を一部低下させても第三世界と折り合うことが要求されるであろう。未開に戻るというのではなくてなんらかの意味で、もっと大きくもっと物質的に豊かに、という近代主義を超えることが必要になってきたのである。

b、脱・近代主義

 前者「福祉世界主義」と関連があるが、地球全体の容量と環境問題を考えると、GNP本位や経済成長至上主義がもはや通じないのではないかと思われる。維持可能な開発

(sustainable development) ということが至上命令になった。人格尊重という意味でのキリスト教的なヒューマニズムに仏教的な自然主義的生物共生主義を加味した新しい発想が必要になってきた、特に環境問題に関連して脱(または超)近代主義という考えが必須となるのではないか。先進国では従来「衣食住」と言われていた「人間の基本的必要」(human basic needs) が「医職住」に格上げされているが、「福祉世界主義」の観点から見れば、端的に「三度の食事を自分の文化の中で安心して食べられる」ことに縮小してもよいのではないかしきりに思う。先進国での企業活動もこれからは環境保全が第一義的な企業倫理となる。これを脱(または超)近代主義と名付けてよいかどうか分からないが、先進国は自己の生活水準を一部低下させても第三世界と折り合うことが要求されるであろう。未開に戻るというのではなくてなんらかの意味で、もっと大きくもっと物質的に豊かに、という近代主義を超えることが必要になってきたのである。

c、社会福祉の倫理的含み

 最後に社会福祉の倫理的道徳的要素に言及せざるを得ない。

 ダーレンドルフが言及した貧富の二極分解などの他、犯罪や銃社会、麻薬やホームレスなどの社会問題はアメリカ合衆国に顕著である。それにたまりかねたかのように、社会学者アミタイ・エツィオーニがコミュニタリアニズム(communiarianism) 運動を提唱し注目を浴び共鳴者が増えている(注23)。一九九六年七月にはジュネーブ大学で世界大会が開かれる。権利と同時にコミュニティへの責任を果たさなければ社会はもたないことを説き、生態学的自然環境の保全と並んで、社会的倫理的道徳的環境保全を唱えている。ダーレンドルフは前述の論文でコミュニタリアニズムを一九世紀末の集合主義に匹敵するものと述べている。

 ノーマン・デニスとA・H・ホールジィは、『英国倫理的社会主義:トマス・モアからR・H・トーニーまで』(注24)を書き、英国の倫理的社会主義の伝統を論じている。その本のなかでは、社会民主主義者のトーニーやティトマスも中道主義者のマーシャルも一緒にして倫理的社会主義者としている。T・H・マーシャルは資本主義、少なくとも市場経済を是認していたので、倫理的とはいえ社会主義者に含められたことに私は初めは意外に感じた。倫理的社会主義は英国での社会福祉思想と理論の本流の感がある。著者たちによる倫理的社会主義の一端は次のようなものである。
 

 「倫理的社会主義は一つのラディカルな伝統である。それは人々には英雄的であることを求め、社会にはそれを育成することを求める。それは、全ての個人に最高に可能な道徳的達成にとっての適当な条件を創ることを目指して、個人には行為の綱領と社会改良の手引きを提供する。それは人間性の理論(人間のパーソナリティに可能なこと)と、社会の理論(人間の社会構造において可能なこと)を前提とする。」
 「この伝統は、個人に対しては良心に訴え、社会に対しては民主主義を通して、責任と利他主義という原則を一貫して繰り返す」。
 「その中の全ての道徳的に自由な人々の平等な尊敬の交わり、コイノニア(分かち合いの仲間関係)」「そのような社会では、全ての他者の等しい自由とも一致する最高の自由を持つ。」

 福祉の基本は自立と噛み合う連帯の思想にあり、負担責任と福祉亨有の度合は倫理道徳の係数とも言える。世紀末のためなのかどうか分からないが、オウム真理教事件に象徴されるような反社会的悪魔的な不気味な非合理性にむかう思想の流れも見える。人間性の光と闇の両面性とパラドックスは底無しの感があるが、無制限に発達する価値中立的科学技術と情報革命社会の発展をもチェックし、正常を取り戻すものは、愚直・古典的かもしれないが、率直な倫理的道徳的な感覚であろう。 注                          
(1) Harold L.Wilensky & Charles N.Lebeaux,Industrial Society and Social        Welfare 1958,Russel Sage Foundation.
(2) R.M.Titmuss(ed.B.Abel-Smith & KEY Titmuss),Social Policy:An                Introduction,1974,George Allen & Unwin,
   (邦訳)三友雅夫監訳『社会福祉政策』1981,恒星社厚生閣(訳27~29頁)
(3) 後出、注(8)
(4) Robert Pinker,The Idea of Welfare 1979,Heinemann
   (邦訳)磯辺実監修、星野政明訳『社会福祉三つのモデル』1981黎明書房
(5) Vic George & Paul Wilding,Ideology and Social Welfare 1976,Routledge&      Kegan Paul
(6) Vic George & Paul Wilding,Welfare and Ieology 1994,Harvester Wheatsheaf (7) Vic George& Robert Page edited,Modern thinkers of Welfare 1995,           Prentice Hall/Harvester Wheatsheaf
(8) T.H.Marshall,Social policy in the Twentieth Century [4th ed.]1975,
  Hutchinson Publishing Group.
   (邦訳)岡田藤太郎訳『社会(福祉)政策-二〇世紀における』相川書房、        1981,1990 (訳44~47頁)
(9) 岡田藤太郎『現代社会福祉学入門』1968,黎明書房
(10) T.H.Marshall(1975)前掲書、訳 135頁
(11) T.H.Marshall, Sociology at the Crossroads and Other Essays                 1963,Heinemann 第4章   
(12) T.H.Marshall(1975)前掲書、訳 301頁
(13) 岡田藤太郎『社会福祉学一般理論の系譜-英国のモデルに学ぶ』1995相川書房 (14) 岡田藤太郎『福祉国家と福祉社会-社会福祉政策の視点』(増補版)1991相川     書房
(15) Daniel Bell,End of ideology 1964
    (邦訳)岡田直之訳『イデオロギーの終焉』創元新社昭和44年
(16) T.H.Marshall, The Right to Welfare and Other Essays ,1981 Heineman
   Educational Books
    (邦訳)岡田藤太郎訳『福祉国家・福祉社会の基礎理論-「福祉に対する権        利」他論集』相川書房,1989(第五章)
     なお、岡田藤太郎前掲書(14)1991、第四章参照。
(17) Robert Pinker,"Recent Trends in Community Care in Britain",1996.3 未刊
(18) Vic George & Robert Page edited,(1995)前掲書
(19) R.H.Tawney,Equality with an Introduction by R.M.Titmus,1964 George         Allen Unwin.
    (邦訳)岡田藤太郎・木下建司訳『平等論』1994相川書房(第五章、第七章)
(20) Ralf Dahrendorf,Class and Class Conflict 1959 Leland Stanford Junior
   University
    (邦訳)富永健一訳『産業社会における階級および階級闘争』昭和39年、ダイ      ヤモンド社
(21) Ralf Dahrendorf,”preserving Prosperity",New Statesman & Society 15/29     December 1995,
(22) 岡田藤太郎1995前掲書
(23) Amitai Etzioni,The Spirit of Comminity;The Reinvention of American         Society,1993,Simon& Shuster
(24) Norman Denis and A.H.Halsey English Ethical Socialism:Thomas More to
   R.H.Tawney ,1988,Claredon Press.岡田藤太郎(1995)前掲書参照