Ⅲ 二〇世紀末のイデオロギー状況

a、福祉国家の危機と福祉見直し

 第二次大戦後、しばらく英国をはじめとして各国で福祉国家を謳歌する時期があった。ダニエル・ベルが豊かな社会の到来と楽観的に社会工学ですべてが解決するという「イデオロギーの終焉」を唱えたのもその頃であった15)。七〇年代に入り石油ショックを契機にして、八〇年代にかけて、福祉国家の危機とか福祉の見直しの声が強くなってきた。それは新保守主義の台頭と符合した。保守主義は、先にも述べたように、T・H・マーシャルが一九世紀末には重要性が薄れているとしたものであった。市場機構が経済発展には不可欠という認識が広まった。ここ一〇年の間に資本主義と社会主義をめぐるイデオロギの対立は、共産主義の蹉跌によって右に移動し、福祉国家主義は今や新保守主義と対峙しているといってよいであろう。共産主義体制は一部にのこっているが、中国のように社会主義的市場経済という従来から見れば少し奇妙な組み合わせも生じている。

 T・H・マーシャルは一九七〇年の論文「福祉資本主義の諸価値問題」16)において、福祉国家の体制(福祉国家主義)を「民主-福祉-資本主義」として表し、政治セクターは議会制民主主義(平等・多数決)、経済セクターは資本主義(自由競争・労働倫理)、社会セクターは福祉社会(ニード・利他主義)、という、各セクターがそれぞれ主体的に異なった諸価値基準を持って対峙し、バランスに立ったトロイカ体制として説明している。マーシャルは葛藤は社会の常態であるとも述べている。

 その考えから行くと、全体社会は大きく政治・経済・社会の三つのセクターの特性の組み合わせとして捉えられる。それぞれのイデオロギーの体制の構成と価値的対立を挙げると。政治セクターは議会制民主主義vs権威主義・権力主義(全体主義、一党独裁、軍事政権など)、経済セクターは市場経済・混合経済vs計画経済・統制経済、社会セクターは制度的福祉(福祉社会)vs残余的福祉、の対照となる。

 それを各イデオロギーに当て嵌めると、福祉国家主義は、上述のように、<議会制民主主義><市場経済・混合経済><制度的福祉(福祉社会)>の組み合わせとなり、新保守主義ないし新経済自由主義は、<議会制民主主義><市場経済・混合経済><残余的福祉>の組み合わせとなる。社会主義は民主社会主義と共産主義とに分けられ、民主社会主義は、<議会制民主主義><計画経済・統制経済><制度的福祉>の組み合わせとなり、共産主義は<権威主義・全体主義・一党独裁><計画経済・統制経済><制度的福祉>の組み合わせとなろう。

 上にも述べたが、冷戦の終結を契機に、中国などの諸国が変容し、社会主義的市場経済と銘打った<権威主義・一党独裁><市場経済・混合経済><制度的福祉(開放主義により残余的になりつつある)>の新しい組み合わせも生じている。

 
  その他かっての共産主義国では経済政策に破綻をきたし開放と銘打って市場経済を取り入れる国が増えているが、一方で一部の富裕層を生んでいるが、他方過渡期において経済セクターの破綻は社会セクターにも連動し、年金制度や雇用制度で多くの人々がインフレや国家財政の破綻によって辛惨を舐めている。

 他方いわゆる先進国のほうでも、一九九六年の六月現在の状況を見ると、ここ二〇年来福祉国家の危機と見直しが叫ばれて久しい。福祉国家批判のポイントは、一つは財政負担の問題であり、二つにはその福祉のエトスが経済や社会の活性を弱めるという仮説である。高齢社会における年金や医療のコストの増大はそれを誰がいかに負担するかの問題を大きくしている。そして福祉は経済を弱くするかについては、いろいろ議論がなされているが決定的な理論はまだないようである。

 今日ヨーロッパやアメリカの先進国では失業問題が重大になってきている。これは一九・二〇世紀の失業問題とは様相を異にしており、国際的な関連がますます大きくなり、もはや一国だけで解決できる問題ではなく、グローバルな解決が迫られている。また人間にとって仕事・労働・とはなにか、という哲学的な問い掛けも出てきている。

 ロバート・ピンカー教授は一九九六年五月来日の講演「英国におけるコミュニティケアの最近の傾向」17)という講演のなかで、福祉財源の逼迫から、医療など公的サービスの中の競争を導入する「疑似市場」化の現状を紹介している。医療のコストや老人福祉の領域での受益者負担、家族やボランティアへの依存の傾向を論じ、権利付与(entitlement) と応責義務(obligation)の境界範囲(boundary)は保守の側に移動し、国民は高負担高福祉か低負担低福祉かの二つの方向の選択を迫られていると述べている。  

 

わが国の場合をどう評価すべきか。戦後五〇年紆余曲折はあったが、谷間の平和の恩恵に早くから与かり、経済優先ではあったが、間もなく社会保障制度や福祉サービスも次第に導入され、それが社会的安定ひいては経済成長にも寄与し、大きく見れば、世界各国に比べてもそれほど劣らない「福祉国家」を築いて来たように思う。寿命の平均が世界でもトップであるのはそれを示していないであろうか。豊かさももうこのぐらいでよいのではないか。しかしながら、高齢化社会となり、これからは年金や医療や介護の財政的負担の問題が本格化しつつある。失業問題も遅ればせながら表面化してきた。我々は衆知を集めて「福祉国家」をより充実させなければならないが、しかし今や自国の利益ばかり追及するのではなく、世界にサービスをして「福祉国家」に加えて「福祉世界」への貢献を果たし、共存共栄を真剣に求めるべき時代なったと思う。

b、中道主義と新保守主義との対決

 ヴィク・ジョージとロバート・ペイジは前述の『現代の福祉思想家たち』(注18)という本のなかで、トーニーとティトマスは民主社会主義者(Democratic Socialist)に入れられている。そして中道主義者(The Middle Way)として、ケインズ、ベヴァリッジ、T・H・マーシャル、ガルブレイスなどが挙げられている。ロバート・ピンカーも当然ここに入る。

 従来イデオロギーの対立は資本主義か社会主義かとされ、それらは右翼とか左翼とか呼ばれた。前者は経済偏重で市場機構における自由競争と個人主義の擁護に傾き、後者は人々の生活重視で平等に傾くとされてきた。この図式は大筋では今日まで引き続き存在し、その時々の状況で振り子が右に左に揺れてきたのである。

 今日の価値対立のポイントは、大局的に見ると、振り子が右に揺れて、中道主義と新保守主義との対立が主流となっている。結局、「福祉国家」を守るものは、経済の重要性を認めつつ国民の福祉を達成をめざす中道主義で、それが生き残った感じである。それは二極原理の折衷とバランスに立つものであり、現実の姿にはかなりの幅の変動がある。しかし本来R・H・トーニーも述べるように自由と平等は一面対立し一面妥協させる必要がある19)。東洋の古典は「過ぎたるは及ばざるがごとし」「中庸は徳の至れるなり」と教えている。

 今日は中道の福祉国家主義が新しい右翼、新保守主義の攻撃にさらされているといってよい。かって『産業社会における階級および階級闘争』20)を著し、LSEの学長をも務め、現在オクスフォード大学のあるカレッジの学長を務めているドイツ生れのラルフ・ダーレンドルフは、西欧における最近の傾向を総括し、新資本主義に生じつつある傾向と市民社会への脅威を述べている。そして民主主義がその新資本主義に対応できるかどうかを問うている。また彼は世界資本主義の最近の傾向と、グローバリゼーション(世界化)の効果がそのような状況を固定化しつつあることを述べている21)。その議論の一部を紹介しよう  「経済的世界化は新しい種類の社会的疎外と結び付くように見える。一つには所得の不平等が増大しつつある」。「新しい不平等は違った種類のものである。それは不平等化
(inequalisation)と言ったほうがよい。均等化とは反対に、ある者がトップへの途を構築することが、他の者たちの穴を掘ることになり、裂け目を作り、分裂させるのである。上位二〇%の層の所得は目覚ましく増加するのに対し、再下位四〇%の層の所得は低下する。大きな諸グループの生活機会のそのような違いは市民社会と両立しない」。
 「そのようなプロセスは、さらにより小さいが顕著な部分」としての「アンダークラス」を生む。「そのように社会的に疎外されている人々は一つの階級ではない」が、一部脱出する人がいるとしても「多くの人々は<公式の>社会、労働市場、政治的世界、より広い世界、とは接触を断たれている状況にある」。殆どのOECD諸国は五%ないし一〇%のそのような人々を抱えているのである。
 「そのような現象に加えて、グローバリゼーションの圧力の下社会的ダーウイーン主義が復帰し、その混合物はもっと致命的である。そこには少なくともヨーロッパにおいて一九世紀末と二〇世紀末の奇妙な類似が見られるのである。今や人々は野放しの個人主義の渦中にあるのである。個人々々は激しい競争の中にお互いに向き合い、最も強いものが制覇するのである。いやその成功の質がどのようであれ、制覇したものが最強とされるのである」。
 「それに対して市民社会を防衛する大衆運動はなぜ起こらないのであろうか。一九世紀末の労働運動に匹敵する二〇世紀版はどこに行ってしまったのか」「その理由は、グローバリゼーションの挑戦を見越して、個人化が市民社会ばかりでなく社会的葛藤をも変形させたのである」「本当に不利な状態にある人々、そしてそのような状態に陥ることを恐れている人々は、現在では新しい生産的勢力を代表していないばかりか、一つの勢力とさえ認められていないのである。富めるものは彼らなしでますます富むことができるのであり、政府は彼らの投票がなくても再選されるのであり、GNPは上昇に上昇を重ねることができるのである」。

  「社会的結合なしの経済成長と政治的自由か、政治的自由なしの経済成長と社会的結合か、これが現代社会の直面する選択肢であろうか」。「アジア的諸価値が新しい誘惑になっている。そこには政治的権威主義が付随している。経済的進歩が社会的安定と保守的諸価値を結合させることができるのである」。
 ダーレンドルフは、「福祉国家は変貌する必要がある。しかしそれは困難なしには行われ得ない」と述べ、「富の創出と社会的結合と政治的自由の文明的なバランスを保つにはどうすればよいのであろうか」と問い、六つの試論的な解決策示唆している。そして次のようにも述べている。「ある種の地域的諸ブロックの形成が今日世界の向かいつつある方向であると言ってよいであろう。しかしもし我々が、全ての人々の繁栄、全ての地域の市民社会、人々の住む全ての所における自由、を語るならば、結局我々は、特権的な地域だけではなく、世界全体(one world) とそれに相応しい諸制度に関心を持つのである」。

 ダーレンドルフの絵はあまり明るいものではないが、社会的ダーウィン主義(Social  Darwinism 、社会的進化論、生物の世界の弱肉強食、適者生存、自然陶汰、の原則は人間社会にも通ずるという説)が一九世紀以来の福祉の宿敵であることが分かる。それをつきつめると経済と福祉の関係と対立の問題となる。それを調整できたるめには健全な民主主義がなければならない。その際、R・H・トーニー、ティトマスらの民主社会主義は少し遠くなったが、中道主義の後楯となっているいってよいであろう。