『ケアリング ワールド ―福祉世界への挑戦―』

OECD,  A Caring World:The New Social Policy Agenda 1999(邦訳)牛津信忠 星野政明 増田樹郎 監訳『ケアリング ワールド ―福祉世界への挑戦―』黎明書房,2001,追論

追論-「福祉世界」を目指して

 本書を「福祉世界」へのプロセスと捉えた監訳者の方々(社会福祉学研究の同僚)からの求めに応えて,私なりの「福祉世界 (Welfare world)」の考え方を述べることをお許し頂きたい.「福祉世界」という言葉はまだ十分定着していない感があるが,グンナー・ミュルダールが早くから用いている(参照文献1).

 私は社会福祉学のパラダイムを追及することを自らに課してきたつもりであるが、そのまとめとして,最近,『社会福祉学一般的理論の系譜-英国のモデルに学ぶ』(1995)相川書房と,『社会福祉学汎論-ソーシャル・ポリシーとソーシャルワーク』(1998)相川書房の2冊を著すことができた.理念的にはともかく歴史的現実的には社会福祉というものはソーシャル・ポリシーとソーシャルワークとの複合というのが一応の結論であった.

 そして「福祉世界」の構想やそれと社会福祉学との関連は,前者(1995)の終章,及び後者(1998)の第6章(国際社会福祉会議で発表したもの)と終章で論じた.ここではポイントのみに触れざるを得ないので,詳しくはそれらを参照いただければ幸いである.また本稿も特に示さないが両著からの大幅な引用を含むことをお断りしておきたい.

1,「福祉国家」とは

 本書の表題の「ケアリング・ワールド」とは訳し難い言葉であるが、無理すれば「配慮ある世界」「助け合う世界」とでも訳せようか.いずれにせよそれは「福祉国家」に関連する概念であると私はまず捉えたい.

 社会福祉とは理念的には皆が安心して楽しく暮せる「良い社会(good society)」を目指すものと言えるが,具体的歴史的には「福祉国家」が出てくる.「福祉国家」(Welfare

State)も文脈によっていろいろ定義されるが,私はまず「レッセフェール(自由放任主義)」に対立する概念であると捉える.19世紀の英国の例をとるとその経済体制ひいては社会体制は「レッセフェール」であった.すなわち、国民の自由主義的資本主義的経済活動に国家は不介入が原則であり,介入すべきではなかった.その方が社会全体の発展にはよいという古典経済学の原理に沿っていた.しかし19世紀の末になって市場原理の硬直化という資本主義の変質により貧困と失業という資本主義の2大問題が顕著になり,それへの対応として資本主義の廃絶をめざすマルクス主義に根差す「共産主義」体制と,修正資本主義ないし漸進的にその廃絶をめざす「福祉国家主義」体制の二つが台頭して競った,「福祉国家」とは「レッセフェール」と対照的に国家は国民の少なくとも最低生活を保障しなければならないという理念に基づいている.そのための介入をむしろ積極的に認めるのである.サービス主体はその後官民・公私と多元的に発展しているが究極的には国家が責任を持つのである.

 第二次大戦後「福祉国家」体制の建設は本格化し、いくつかの産業先進国において一応の成功を見た。他方20世紀の一大実験とも言える1917年に台頭した共産主義は,1989年のベルリンの壁の崩壊で象徴的に破綻したが、その結果現在生き残っているのは前者といえる

 20世紀も終わりに近づき、左の共産主義的社会主義が大きな功罪を伴い破綻した今日、視座全体が右に移動して、「福祉国家主義」(「自由主義的集合主義(collectivism)」、最近では「倫理的社会主義(ethical socialism)」(参照文献7)という言葉も出てきている)は左寄りのものとなって,右寄りのレッセ・フェール的「新経済自由主義・新資本主義」と対峙することとなった。しかし「新資本主義」といえども、議会制民主主義の立場をとる以上,ナショナル・ミニマムなど「福祉国家」理論のある部分を否定することは出来ず、両者は実質的には手段的な差であり、目標から大局的に見ればその距離は近く,端的に、経済(自由主義的市場経済)と福祉(福祉国家主義)の対峙とバランスの問題となってきた、と私は捉える。

 また,「福祉国家主義」は社会思想的には,自由主義的集合主義ないし修正資本主義として表され、自然主義的「社会的ダーウィン主義(社会的進化論,social Darwinism)」に対立する概念である.「社会的ダーウィン主義」とは、人間社会の本質を,進化論的に生物世界と同じく,生存競争,適者生存,弱肉強食,自然淘汰,の法則に支配されているとし,社会の発展もそれに沿っていると見るのである.資本主義と社会的進化論は全くではないが一部共通の基盤に立つていると言えよう.

「福祉国家」の理念はそれと真っ向から対立する.「福祉国家主義」には,その他,ヒューマニズム,人権思想,民主主義,共生の思想,コミュニタリアニズムなどそれに親近の思想をいろいろ挙げることができるであろう.ベヴァリッジは社会的良心という概念でその原動力を説明している(参照文献3,p.9).また「福祉国家主義」を人間性の理想と結び付けて「倫理的社会主義」と位置付けることもできる.

 

 この体制は基本的には中道・折衷主義の立場であると言ってよい.その思想は今日生き残り,国により歴史と文化によって偏りがあると

 「福祉国家」の構造を,T・H・マーシャルは,従来は福祉資本主義と表されていたものを,「民主-福祉-資本主義」というモデルで表し,ハイフォン連結のトロイカ体制とした(参照文献6第六章).体制の構成は,政治セクターは「議会制民主主義」,経済セクターは公的と市場経済を認める「混合経済」,社会セクターは「福祉社会」という性格を持ち,それぞれのセクターは,平等,自由,共生などの機軸的諸価値の主体性を保ちながら,お互いのバランスをとり運営されて行く.この場合「福祉社会」というのは本書で言う「ケアリング・ワールド」とほとんど合致するのではないかと思う.「福祉社会」も文脈によっていろいろ定義づけられるが,私は「福祉国家」は主として境界,「福祉社会」は性格を表す言葉と捉えている.T・H・マーシャルは「貧窮を救済し貧困をなくすだけでなく,福祉の達成を求める上でその集合的な責任を認める社会」とも定義している.それを現実化する施策がソーシャル・ポリシーである.

 それは全ての人に「市民資格(citizenship)」が認められる社会と言ってもよく,「市民資格」をマーシャルは公民的権利(civil right),政治的権利(political right),社会的権利(social right)の3つに分け,英国の場合それぞれ18世紀,19世紀,20世紀に国民一般のものとなり,社会的権利の付与によって「福祉国家」が実質的に成立したとした(参照文献4第四章). しても,経済と福祉のバランスを課題とする点では共通である.OECDのメンバー諸国も例外ではない.

2,ソーシャル・ポリシー

 本書は副題にあるとおり,ソーシャル・ポリシーの新しい在り方の模索である.

 ソーシャル・ポリシーとはなによりもまず「福祉国家」をもたらすための方策としてよいであろう。T・H・マーシャル(Thomas Hunphrey Marshall,1893-1981)は、「福祉国家」の体制と性格を歴史学的社会学的に理論づけた人であるが(参照文献4,5,6),ソーシャル・ポリシーの目標は、合意の得やすい順に、1,貧困を無くすこと、2,福祉の極大化、3,平等の追及であるとしている。マーシャルにとって貧困とは相対的貧困ではなくて赦しがたい(intolerable)絶対的貧困であった.福祉の極大化の福祉とは大きくは福祉サービスと捉えてよいであろう(参照文献5訳p.301)。

 そのための具体的戦略をまとめると、1,社会保険と公的扶助による社会保障制度、2,積極的優遇(positive discrimination)の要素をも含む、住宅・医療・教育・福祉など諸社会サービス、3,資産課税、所得累進課税、などの再分配政策であり、その他に、経済政策と共通の部分として完全雇用政策と労働者保護政策すなわち、最低賃金とか労働協約などの諸政策があろう。それは20世紀後半に特に歴史的経験を積み重ねてきた。英国の理論モデルを用いると,それを「マーシャル・ティトマス型福祉国家」、あるいは「社会権市民資格型福祉国家」となる.

 ソーシャル・ポリシーの対象は,普遍的に言えば「良い社会」の追及であるが,それを現実的に言えば,人々の人生途上に横たわる災害,天災・人災・戦災に対する予防と対応であり、歴史的特定的に言えば主として資本主義的経済政策の生み出す問題への対応である.具体的には,社会保障と所得再分配の諸制度による,全ての国民に対するナショナル・ミニマムの確保である.福祉ニードはある意味では限界がないが,資源の現実,自由主義的思想などの制約により,人々の「人間的基本的必要(human basic needs)」が鍵概念となる.社会福祉学はその人の「人間的基本的必要」に対する想像力と思想に左右されるというのが私の理解である.

(ベヴァリッジの5巨人悪)

 ソーシャル・ポリシーは広義の社会福祉である。ソーシャル・ポリシーの範囲は便宜的であるが、英国のモデルに沿って、『ベヴァリッジ報告』に出てくる「5巨人(Five

Giants)悪」を取り上げるのが便利である(参照文献2para.8)。巨人悪とは英国では時には聖書に次ぐ宗教書と目されるジョン・バンヤンの『天路歴程』に出てくる天国を目指す巡礼者の前途を阻む巨人になぞらえたものであろうが、第2次大戦後の英国社会の再建を阻む「5巨人悪」とは、ベヴァリッジの順に従えば「欠乏」(Want),「疾病」(Disease),「無知」(Ignorance),「陋隘」(Squalor),「無為」(Idleness)、すなわち、社会保障、医療、教育、住居と環境、雇用、の諸問題を指す(その後の発展としての第六のものとしてのケア問題については後述).その背後にある鍵概念は「人間的基本的必要」という概念と言える。ソーシャル・ポリシーの政策はこの鍵概念を巡って諸社会サービスの体系として展開する。社会福祉は本来問題解決中心というネガティブなものを修復する,また予防するという契機を持っている。それはまたナショナル・ミニマムという政策的観念(少なくともそれだけは保障する、しかしそれ以上は自律にまつという「自由主義的」要素の概念)を含む。

まず「欠乏」であるが、ベヴァリッジは他の巨人に対応するサービスが前提としながらもむしろ一番解決しやすいとしている。これは具体的には社会保障の体系である。ヒューマン・ニードの純粋な経済的側面である。「疾病」と「陋隘」(汚くて狭い)は医療と住宅問題を意味するが住宅問題を環境問題まで広げればエコロジカルな側面と捉えることができる。「無知」は教育問題を意味し生活文化の側面である。第5の「無為」は失業問題を意味するがこれは経済的側面と生活文化的側面の双方を含むと言えよう。

(第6の巨人悪)

 問題は今日狭義の社会福祉として医療と並んで福祉とよばれている部分である。1942年に出されたベヴァリッジ報告ではまだ大きな問題になっていなかったと言える部分である。第6の巨人悪とも言える。ベヴァリッジにならえば「ケアレスネス」(無介護)とでも言えようか。勿論この問題は早くから芽生えていたであろうが、高齢化社会,障害者福祉の発達などにより次第に浮上し組織的な対応に迫られるようになったのは比較的最近と言えよう。英国では1968年のシーボーム報告が契機となって「対人福祉サービス」(personal social service )とか「コミュニティ・ケア」という概念が定着してきたのであり、わが国でもそれに前後して、サービスの体系が出来上がっていった。その背後には家族と地域コミュニティの変貌が大きく作用していると言ってよいであろう。すなわち、ケアサービスと言ってもよい対人福祉サービスは、家族と地域コミュニティの機能の縮小から公的対応の必要が生まれてきたとしてよいであろう。以上からも分かるように狭義の社会福祉である「対人福祉サービス」は広義の社会福祉であるソーシャル・ポリシーに含まれその一環である.

 問題は本書のケアリングであるが、この第6の巨人悪だけではなくむしろソーシャル・ポリシー全体に及ぶむしろ新しい用法である.いずれにしても訳しにくい言葉である.

3「福祉国家」から「福祉世界」へ

a 本書の位置付け

 本書の趣旨はあくまで,OECDのメンバー諸国における人々の生活状況が急速に変貌しつつあるのに対し,広域とはいえなお「福祉国家」の観点から見た新しい諸問題に対する対応である.

 牛津氏の「解説」にもあるとおり,それは最近の新しい傾向:高齢化社会,女性が働きに出ることによる家族の構成と機能の変化,公的扶助と勤労との結合,その他ソーシャル・ポリシーの在り方に影響する諸傾向を取り上げている.ワークフェアという新しいことばが表すようにワーク(仕事)の意味とその配分は特に重要になってきたと私は捉える.また自助と共助と他助の兼合いを尊重する「第三の道(The third way)」的な傾向も現れていると思う.

 本書は先進国の経験とこれからの見通しを示した点でそれなりの重要性と価値を持っている.しかし本書の姉妹版ともいえるMaintaining Prosperity in an Aging Society1998(邦訳,阿部敦訳『OECD諸国・活力ある高齢化への挑戦-持続的な経済成長をめざして』ミネルヴァ書房(2000))が示すようになお繁栄を指向している.もちろん繁栄が即悪いというのではなく,グローバリゼーションにおけるそのコンテキストが問われるのである.

 本書の対象は「福祉国家」を追及してきた曲がりなりにも経済的には「恵まれた国々」といえる.主として産業先進国の社会政策の現状を報告し新しい状況への対応を論じたものである.しかし世界にはそれを上回る開発途上国がある.

 それらはもはや詳しく説明する必要はないであろうが、1、について言えば、相対的貧困はともかく,少なくとも饑餓的絶対的貧困をなくすのは「福祉国家」の第1の目標であったのであるが、これを「福祉世界」というグローバルな視野に適用するのは当然といえないであろうか。このことは人口爆発の危機とも密接に関連している。この問題では特に第三世界の女性の教育と地位の向上が鍵ともいわれている。2,の地球規模の環境破壊とその保全が緊急な課題になっている.我々は他の生物とも共生して「安心して住める地球」を確保しなければならない.3,について言えば、20世紀は狂気の戦争の世紀であったと言ってよく、少なくとも21世紀の前半に、戦争と圧政をなくして世界平和の達成を目指すことは理想主義的過ぎるであろうか.

 この3つの解決は端的に言うと,人類の存続,持続可能な発展(sustainable development)について現在考えられる最低条件である.これらの問題が解決されなければ、経済がいくら成長しても、科学がいくら発達しても我々に本当の安心ひいては福祉も幸福もないと思う.

 

 これらの三者が因果において相互に密接に関連していることは言うまでもない。それに対し、例えば1、に対して

1994年 9月にエジプトで開かれた国連の人口問題会議のような、また1995年のコペンハーゲンに於ける貧困問題失業と社会的統合をテーマにしたワールド・サミットとNGOのフォーラムのような、個別的なアプローチはなされているが、いまや必要なことは、それらの相互関連を見据えて総合的にストレートに攻撃する戦略ではないかと思う。 その一つの鍵は世界経済政策(ポイントは国際資本主義のコントロール)と世界社会政策(世界ソーシャル・ポリシー)の樹立といえよう。いわゆる先進国は物質的生活水準を一部切り下げる必要があろうし、国際所得税などの発想も必要かもしれない。遅れたところが追い付くというニュアンスのある社会開発という言葉も修正の必要があるかもしれない。3,の世界平和の問題はある意味で最も困難な問題であるが、各民族に自分の文化に安住する権利を認めるという文化と開発の関係の再検討と、お互いに多様性を認め、共存共栄するという人類の思想の変革が一つの要素であろう。その点情報化社会の進展は相互理解を加速化するので我々に希望を与える。

 ある意味では「環境破壊」と「戦争」はグローバルに関連しており一蓮托生であるから国際的協力を得るのはむしろ易しいであろうが,問題は「絶対的貧困」である.本当は国際的に密接に関連しているのであるが,国家的利己心がその認識を妨げる.

 世界の現実を見れば、そして思想文化の多様性、膨大な人口を見れば、「福祉世界」は今の段階では夢のようなことかも知れないが、20世紀の人々が「福祉国家」に対してなしたようにあえて挑戦するのである。これらはもはや夢ではなく21世紀に向けてのビジョンとしなければならないと思うのである

d 世界ソーシャル・ポリシー

 

 

 

 ベヴァリッジ,ケインズの「福祉国家」とソーシャル・ポリシーの構想は英国という国家中心の内政中心の視野に基づいていた.彼らは愛国心を強調した.しかし「福祉世界」として視野をグローバル化する時には,基盤の拡大と条件がはるかに複雑化することにより従来のソーシャル・ポリシーをそのまま適用することは難しい.理屈から言えば,全部の国が「福祉国家」になれば自然に「福祉世界」は成立するのであるが.勿論そう簡単ではない.新しい世界ソーシャル・ポリシーが要請されるのである.

 世界ソーシャル・ポリシーの戦略の確立がなによりも求められている.何よりもまず地球益に立つ知的エリートの高級のシンタンクが必要であると思う.UNやNGOなどすらまだ国益や企業益に引きずられている。今日国内を問わず自然科学や企業サイドのサバイバル競走に基づくエネルギーの注入はすざましいものがある。その結果自然科学とテクノロジー,エンジニァリングの発達はますます加速し、生物科学の発達など、どのような社会が現れるか予断を許さず不気味な程である。またコンピューター革命、情報技術革命を軸とする社会の変貌は目覚ましく、社会の様相も根本から変わろうとしている。このような時代の自然科学や技術工学の研究ひいては企業の運営などにおける、しのぎを削っての競争において払われるのエネルギーは莫大なものである。

 それに比べると社会科学一般ひいては社会福祉学も、その発達は大きく遅れていると言わざるを得ない。社会科学特に政策科学の進歩は足踏み状態である。例えば環境問題ひとつを取り上げても,専門家からは,「直ちに行動を」(ACT NOW)とか,「取り返しのつかぬ時点」(the point of no return)などの警告が発せられているのに(参照文献8),わが国でもまだ政界も経済界も危機感が薄く,対応は緩く大量浪費なおたけなわである.社会科学にも自然科学や科学技術に匹敵するような明確なビジョンの下でのエネルギーの注入が求められている.このままでは21世紀の先行きは暗い.

 

 

 私は「福祉国家」から「福祉世界」へと発想を発展させたが、「福祉世界」における世界ソーシャル・ポリシーともなれば,さらに知的エリート集団の結集が必要になるのではないであろうか。その時の課題は多いが、「社会的進化論」的世界経済勢力との対決が一つの主要な課題になってきている感じである.いずれにしても総合的集約的「知」の力に対する期待と賭けがある.人類にとって政治的経済的社会的倫理的な歴史的知的教訓はもう十分なはずである.問題はその共有の手段である.

 世界ソーシャル・ポリシーはさらに新しい思想にも直面せざるを得ない.ひたすら経済成長と繁栄のみを求める近代主義との対決,悠久の宇宙に照らしての,反終末論的思想,生物性尊重主義,持続尊重主義,文明否定主義のようなものとの対面が求められているような気がする.                       (2000,9,23)

参照文献

1,Gunnar Myldal,Beyond the Welfare State,Yale university Press,1960

 (邦訳)北川一雄監訳『福祉国家を越えて』ダイヤモンド社,昭和45

2,William Beveridge,Social Insurance and alliedServices(Beveridge Report)

HMSO,1942

 (邦訳)山田雄三監訳『(ベヴァリッジ報告)社会保険および関連サービス』至誠堂、昭和44

3,William Beveridge,Voluntary Action:A Reporton Methods of Social Advance,

  George Allen and Unwin,1948

4,Thomas Humphrey Marshall, Sociology at the Crossroads and Other Essays,

  Heineman,1963

 

 

 (邦訳)岡田藤太郎・森定玲子訳『社会学・社会福祉学論集-「市民資格と社会的階級」他-』相川書房,1998

5,Thomas Humphrey Marshall, Social Policy-in the Twentieth Century Hutchinson University Library,1965,(Forth Edition,1975)

(邦訳)岡田藤太郎訳『社会(福祉)政策-二十世紀における』相川書房,1981,1990

6,Thomas Humphrey Marshall, The Right to welfare and Other Essays,Heineman Educational Books,1981

 (邦訳)岡田藤太郎訳『福祉国家・福祉社会の基礎理論-「福祉に対する権利」他論集-』相川書房,1989

7,Norman Dennis and A.H.Halsey, English Ethical Socialism:Thomas More to R.H. Tawney,Clarendon Press Oxford,.1988

8,Brian Burrows,Alan Mayne,Dr.Paul Newbury Into the 21st Century:A Handbook

  for a Sustainable FutureAdamantine Press Limited 1991.

9,Edited by Joseph Rotblat, World Citizenship:Allegiance to Humanity,

  St.Martin'S Press,1997.

                      岡田藤太郎  

                      「福祉世界」研究所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 OECDは産業先進国及び一部の追随国のグループである.現在メンバー国の数は全世界が189ケ国(国連加盟国)であるのに対し.29ケ国であり、その含む人口は地球の全人口60億に対して11億である.

 しかし今や目標と視野を「福祉国家」から「福祉世界」に転じると性格を異にする新しい問題が生起する.

b「福祉世界」を目指す

 本書が取り上げたモデルは産業社会の「福祉国家」のモデルである.すなわち、その成立の条件としてしかるべき程度の経済的基盤を必要とするのである。しかし、グローバルに見ると、すべてが産業の先進国であるのではなく、大きな部分の開発途上国がある。しかもそれらの国々は歴史的伝統的文化的に見て非常に多様性があり、この先進国モデルの普遍性は大きく問われているのである。いまや世界の情勢では全ての国が開発を進めて先進国並になるという方向そのものが問われてきたと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界中を見渡すと一応のレベルでも「福祉国家」を達成したと思える国はまだ少いのである。「福祉国家」がすべての国民に対して一応の最低生活の権利を保障するものであるに対して、「福祉世界」とはこの地球に生を享けたすべての人が、世界市民として最低生活(ミニマム)の権利を保障されるような世界である。「世界市民資格」(world citizen-ship)とはそのようなものを表すものであろう(参照文献9)。そのような世界を今度は世界の人々と協力してつくることである。

c「福祉世界」への戦略

 私は、世界的規模で考えて切迫した問題は相互に相関連する3つの問題に要約できると思う。その3つの問題とは、1、絶対的饑餓的貧困と人口爆発,2,地球規模の環境破壊,3,局地戦争と狂気の殺戮、圧政と難民の流出、である。

 従来「福祉国家」のレベルを対象とするの社会福祉の世界では,社会問題の領域を3Dとして分ける発想があった。3Dとは「Destitution (貧窮)」、「Disease (病気)」、「Delinquency (非行、犯罪)」である。すなわち人生の三局面:経済的;身体・環境的;社会関係的;の諸問題であり、それに対する対策がすなわち社会福祉でありソーシャル・ポリシーであった.この発想を「福祉世界」に延長拡大すると、3Wとなる.すなわち,「Want(絶対的貧困)」、「Waste (環境破壊)」,「War (戦争)」である。これらは相互に密接に関連している(inter-related)から、同時にアタックする必要がある(参照文献8)。この3つの問題の各々については既に多く取り上げられているが、「Want(絶対的貧困)」の削滅という社会福祉側からのアプローチであることがこの発想の<みそ>である。この3Wを解消するために真剣に世界の知力を結集するというのが私のヴジョンである。