「福祉国家」から「福祉世界」へ Ⅱー②

「福祉世界」の理念とその必然性

「福祉国家」の理念を「福祉世界」(グンナー・ミュルダル[後出]が1960年にこの言葉を提出した)の定義に拡げるならば,地球上に生まれたすべての人は最低限の生存の保障を享有する権利(世界市民資格)があることを意味するとしてよいであろう.

   福祉世界の創出に妥当する少なくとも二つの要素があるであろう.倫理的動機とグローバリゼーション(地球規模化)のプロセスである.

(1)倫理的動機;社会的良心[ベヴァリッジ] 
 福祉国家システムの核心をなす社会保障制度を計画体系化したウイリアム・ベヴァリッジは,彼の第三の報告書『民間活動:社会的進歩の方法に関する報告』1948(注2)の中で次のように述べている.

 

 (この動機は)社会保険に関する私の(第一の)報告書において社会的良心

(social conscience)として述べたものから由来する.社会的良心とは,人々が物質的に快適であっても,彼らの隣人も物質的に快適でないかぎり,精神的に快適でないという感情である.社会的良心を持つということは,仲間が,貧窮,病気,不潔な環境,無学,失業という社会的巨悪に捕まって苦しんでいるのに,自分自身は個人的な繁栄に逃げ込んで平然としてはおられないということである(p.9).

 我々はこの社会的良心という合意を全世界に拡げることが必要である.

(2)地球規模化(globalization)の事実
 スウェーデンのノーベル賞受賞経済学者グンナー・ミュルダルは1960年に刊行した『福祉国家を越えて』(注3)の中で,「福祉国家」の限界をのべ,次のように「福祉世界」の概念を提起している.

 

 国際関係については,国民経済計画は,これらの理想に合致するような成果をあげていない.福祉国家は国民主義的なものである.国際的には自由,平等,友愛の理想は福祉世界へ向かう政治的展開によってのみこれを達成できるであろう.そして,このような展開は,個々の国での経済計画への趨勢に相当に基本的な諸変化がなくてはならないということを意味するであろう.(訳

p.21,傍線は筆者)

経済的国民主義が生ずるもっと深い理由は,福祉国家の成長といっそうの発展が,国境外には及ばない人間的連帯感を築きやすいというところにある(訳p.232)

 したがって,ひとたび西欧的富国で福祉国家が誕生し,またひとたび低開発国が独立し始めて国民的発展のために個別的な国民経済政策にのり出しつつあるとなれば,国際経済の崩壊を止どめる道は,福祉世界に向かって努力する以外には,実際にはなにもないと著者が述べたのは,分析的推論からの命題であって,決して単純な価値判断ではない(訳p.344傍線は筆者).

 かってロンドン大学(LSE)の学長も務め,現在オクスフォード大学,ナフィールド・カレッジの学長であるラルフ・ダーレンドルフは,最近の論文(注4)で地球規模化によって,新しいの形の資本主義に生じつつある諸傾向とその市民社会への脅威を述べ,民主主義がその新資本主義に対応できるかどうかを問うている.現状を分析した後,彼は次のように続ける.

経済的地球規模化は新しい種類の社会的疎外と結び付くように見える.一つには所得の不平等が増大しつつある.----不平等は,人々が彼等自身の努力によって益を生み生活のチャンスを改善するうえで十分開かれている環境では,希望と進歩の源泉となり得る.----しかしながら,新しい不平等は違った種類のものである.それは不平等化(inequalisation)と言ったほうがよい.均等化とは反対に,ある者がトップへの途を構築することが,他の者たちの穴を掘ることになり,裂け目を作り,分裂させるのである.上位20%の層の所得は目覚ましく増加するのに対し,再下位40%の層の所得は低下する---.

 そのようなプロセスは,より小さいが顕著な部分が市民資格の網の目から全面的にこぼれるように見える事実によって重大化した.----そのような社会的に疎外されている人々(アンダークラス)は一つの階級ではない.彼等は精々多くの異なった生活史を持った人々の一つのカテゴリにすぎない.彼等の中のある人々がそのような苦境からなんとか脱出したとしても,多くの人々は「公式の」社会,労働市場,政治的世界,より広い世界,とは接触を断たれている状況にある.----ほとんどのOECD諸国は,その中に(5%から10%の)市民のつもりであるが実質的には市民でない人々を抱えているのである.

  新しい不平等--トップに近い人々と底辺に近い人々との差の増大--は低い賃金か高い技能かの選択に我々を引き戻す.必要とされる技能を持つ人々には高い俸給が支払われるが,かっては妥当な賃金や俸給を貰っていた多くの人々は,惨めなしばしば不定期な実収しか貰えない状態に落ち込む.----.実際ある人々は社会にはもう必要ないのである.彼らが貢献しなくても経済は成長するのである.

そのような現象に加えて,地球規模化の圧力の下に社会的ダーウイーン主義が復帰し,その混合物はもっと致命的である.少なくともヨーロッパにおいて,そこには19世紀末と20世紀末の奇妙な類似が見られる.現在と同じくその時人々は自由奔放な個人主 義の時代を過ごしつつあった.個々人は激しい競争の中にお互いが向き合い,最も強いものが制覇するのである.いやその成功の質がどのようであれ,制覇したものが最強とされたのである.それに対して,今と同じく過去にも反撥はあった.

1900年頃それは集合主義と唱えられた.今日の新しい流行はコミュニタリアニズムと呼ばれている.ダーレンドルフは次ぎのように問い掛け分析する.
 

 市民社会を防衛する大衆運動はなぜ起こらないのであろうか.19世紀末の労働運動に匹敵する20世紀版はどこに行ってしまったのか.そのようなものは存在しないのであり,これからも存在しないであろう.その理由は,地球規模化の挑戦を見越して,個人化が市民社会ばかりでなく社会的葛藤をも変形させたのである.多くの人々は同じ運 命を辿るであろう.しかしそこには彼らの受難に関して統一的なあるいは統一するような説明が欠けている.それと戦い排撃すべき敵がいないのである.もっと大事なことそして悪いことには,本当に不利な状態にある人々,そしてそのような状態に陥ることを恐れている人々は,現在では新しい生産的勢力を代表していないばかりか,一つの勢力とさえ認められていないのである.富めるものは彼らなしでますます富むことができるのであり,政府は彼らの投票がなくても再選されるのであり,GNPは上昇に上昇を重ねることができるのである.

 ダーレンドルフはアジアの状況にも言及し論じている.  そこで,社会的結合なしの経済成長と政治的自由か,政治的自由なしの経済成長と社会的結合か,が現代社会の直面する代替的選択になるのであろうか.結局,他の人々にとっては受け入れがたいとしても,ある人々にはより魅力的な,等しく存立可能な,西洋モデルの代替的選択があるであろうか.OECD世界の人々はますますそのように考えている.多くのビジネスマンたちは,アジア的モデルを好み,マーガレット・サッチャーからシルビオ・ベルスコニーに至る保守的政治家たちはそれに追随している.アジア的諸価値は新しい誘惑になっている.そこには政治的権威主義が付随している.経済的進歩が社会的安定と保守的諸価値を結合させることができるのである.
  

 

 ダーレンドルフは「福祉国家は変貌する必要がある.しかしそれは困難なしには行われ得ない」と論じ,「富の創出と社会的結合と政治的自由の文明的なバランスを保つにはどうすればよいのであろうか」と問うている.彼は6つの試論的な解決策:公的経済学理論の変革;仕事の性格;アンダークラスの問題;個人化と中央集権化;地方権力;政府の役割,を示唆している.しかし彼の結論も一つの世界である.

 このリストは多くの検討を必要とする事柄を残している.特に,地球規模化の挑戦に対する制度的--地政学的と言ってもよいであろう--対応という最も重大な問題を解決しないまま残している.ある種の地域的諸ブロックの形成が今日世界の向かいつつある方向であると言ってよいであろう.しかしもし我々が,全ての人々の繁栄,全ての地域の市民社会,人々の住む全ての所における自由,を語るならば,結局我々は,特権的な地域だけではなく,一つの世界(one world)とそれに相応しい諸制度に関心を持つのである.(強調は筆者)

(2)William Beveridge,Voluntary Action:A Report on Methods ofSocial Advance,
   G.Allen & Unwin,1948
 (3)Gunnaar Myrdal,Beyondthe Welfare State,Yale University Press,1960
   (邦訳)北川一雄監訳『福祉国家を越えて』ダイヤモンド社,昭和45年
 (4)Ralf Darendorf:"Preserving Prosperity" New Statesman & Society 15/29
   December,1995,pp.36-41)